M&Mの原点
若い頃から私は、決して器用な人間ではなかったようです。子供の頃から勉強する事は嫌いではなかったので、友人にテスト勉強のコツを教えたりしているうちに、それがあまりに楽しくて、友人にも感謝されて、嬉しくて、だから単純に教師になりたいと思うようになりました。そして、
「教師を目指すのなら、一番厄介な数学を教えるんだ。一番やりがいがある。」
と意気込み、大学の専攻は数学科でした。実際、教育実習も本当に楽しかったし、教員採用試験も何事もスムーズでした。愛知県体育館で愛知県教員新人を代表して「宣誓」までしました。ところが、いざ教員になって思い知らされたのはこれです。
「教員は公務員であった。ここでは私はどこか変だ。」
どうやら私は、見事な異端児だったようです。今から思うと、ただの単純バカだったわけですが、「空気を読む」事も出来なかったらしく、学校方針に関して矛盾点があったりすると、職員室で上司達に向かって、
「それ変じゃないですか?やっぱり変だと思います。」
と、あとさき考えずに言っていたのです。そんな性格だったので、色々と頑張れば頑張るほど物事はこじれまして、結局上司には、
「君が頑張れば頑張るほど迷惑なのがわからないのか?」
と言われる始末。ただ、職員室に入るのは恐怖でしたが、生徒達だけは救いでした。
結局、教員は一年で退職する事にしました。完全に白旗でした。私にはあの時点では大人の対応は全く無理でした。敗北感を抱え、その後結婚し、最初の子供が生まれた頃、テレビをぼけーっと見ていたら、通訳が活躍するドラマが放映されていました。それを見ていたら私はどういうわけか、その日のうちに通訳になると決心してしまったのです。そして家族にも宣言しました。確か、25歳になったばかりの頃だったような。感覚的には確か、「これだ!」と感じたような記憶があるのですが、どのような根拠で「これだ」と思ったのかは、今は不思議としか言えません。私はその時点まで英語なんて受験勉強でやったきりで、外国の人達と話をした事も全くなく、新婚旅行で行ったハワイでも英語は話せませんでした。留学経験なんてゼロですし。
でも、その後は試行錯誤で奇妙なオタクな努力をはじめました。まずは受験時代の「英文解釈」を復習しました。とにかく最低でも受験生レベルに戻そうと思ったのでしょう。そして、音を聞かねばならぬと思い、毎日ラジオの英会話番組を聞きました。番組はその頃もなかなか豊富で、毎日しっかりテープに取って、何度も声に出して唱えていました。更に近くの「外国人教師」だけが売りの小さな英会話教室に入りました。これは週に一回だけでした。それを2 年くらいやったころ、自分としてはなんとなく英語を話しているような感触になっていました。なので、名古屋の通訳の学校に変わりました。それも週に一回だけです。
しかし、それはかなりの衝撃でした。当時の私には、大人の社会の言葉をすらすら訳す先生は後光が射して見えたらしいです。
このころも、私の精神年齢はまだまだ子供で、通訳のクラスでも「はーい、先生!」みたいな小学生のような態度で授業を受けていたような記憶があります。でも、勉強の成果は次第に加速し、私は徐々に自信を付けていきました。会話に関しては、まあそれなりに流暢に聞こえるようなくらいにはなっていたような。そして20 代の終わり頃でしたが、登録しておいた派遣会社から連絡が入り、なんと、工場の通訳に入れる事になりました。
「やったー。初仕事だ!」
と息巻いて愛知県内の工場に派遣されました。そこにはアメリカ人のエンジニアが顧客である日本の会社に対し、売った機械の使用法や仕様の説明をするというものでした。まず、そのアメリカ人を会社の人と空港にお迎えに行く。交通手段など軽く説明する。食事の好みを聞く。まあ、この辺りまでは問題無く、私自身も、
「はじめてにしては、イケテル!大丈夫!」
と思ったすぐ次の瞬間から悪夢ははじまりました。
実際の技術的な会議に入ったとたん、私は全くわからなくなったのです。工場の中にはありとあらゆる機械、工法、行程、原材料があります。理系だったとはいえ、数学は工場では直接役には立ちません。物理もどこで使ってあるのか見えません。仮に理論が理解できても、それが英語になりません。必死に考えながらやりましたが、お客様に多大な迷惑をかけた事は明白です。仕事は全くスムーズに進みませんでした。
帰りの電車の中で、相変わらず子供の精神年齢の私は、涙を止める事が出来ず、しまいには号泣していたかもしれません。とにかく自分が残念で残念で本当に悲しかったのです。しかし、30分電車に揺られ、号泣しているうちに不思議とムクムクと「リベンジ」根性が立ち上がってきました。私は、とっさに電車を降り、反対側のホームに行き、また名古屋に戻り一番大きな本屋さんに行って、「技術英語辞典」「工場で使う英語」「エンジニアのための英語」などなど、しこたま買い込み、次の日からこれらを片っ端から読み込むようになりました。もちろん、ラジオも通訳の教室も続けました。
そんな頃、栄の地下街の安い寿司屋に立ち寄った時、店員とア メリカ人女性がもめていました。店員は英語でまくしたてられて とても困っていました。おせっかいな私はついつい手助けしたく なり、彼女に
「どうしたの?」 と聞いたら、
「私は、自分のハシを持っている。資源のムダになるから、 私には割り箸はいらない。」 と主張。そして、
「あなたは英語ができるのね。良かった。 私のはじめた環境運動を手伝いなさい。」
と言われ、そのあまりの迫力に押され、彼女に関わる事になったのですが、実はそれは2005年万博予定地の「海上の森」と「藤前干潟」を守る、そして「長良川河口堰の建設に反対する」というものでした。その後、私はこれらの市民運動の通訳や翻訳をボランティアでやるようになりました。それらに参加しながら、世の中の仕組み、政治、経済、それらの裏と表など、実に多くを学ぶ事が出来ました。私の人間としての「モノゴコロ」はやっとその頃おとずれました。
そして、ちょうどそんな頃、中学時代の友人や自分の子供達の友達の親などから頼まれ、自宅の一室で英会話教室をはじめました。
それがM&M 通訳メイト英会話教室の第一歩だったのです。当時の生徒は子供達だけでした。その頃は、自分はまだまともな通訳は出来ない事を知っていましたから、時間さえあれば勉強していました。
「次の通訳のチャンスまでに、技術英語を全部覚えてやるぞ! 次の獲物は絶対に逃がさない!」
みたいなかなりギラギラした闘志に燃えていたような記憶があります。その後、次に来た通訳の仕事では、オタク根性が実り無事に技術分野で通訳する事が出来ました。私の通訳としての扉がやっと開きました。
ところが、新たな世界が開けると、またそこに難問が発生します。「わからない」ことをわかっていなかった自分を発見していくのです。政治や経済の仕組み、国際関係、宗教問題、貿易摩擦、歴史的背景などなど。私はどの分野においても見事な素人でした。
通訳の仕事は産業技術だけではありません。通訳の授業だけでは 追いつきません。このことに気が付いた時はおよそ30年近く前ですので、今ほどネットも普及しておらず、情報もあまりなく、 気持ちは焦るが暗中模索となりました。仕方がないので、新聞をむさぼり読み、ハリウッド映画の英語をブツブツ声に出して真似しながら見て、普通の日本語のニュースも英語に訳しながら見る といった周りにはとても迷惑な存在だったと思います。電車の中 で英語表現を覚えようとブツブツ言っていたら、いつの間にか エキサイトしてかなり大きな声になったらしく、周辺の人に「静かにして下さい。迷惑です。」と叱られた事も一度や二度ではありません。
その後は少しずつ仕事が増えてきましたが、私は大手の通訳エージェンシーに登録しない方針を取りました。通訳や翻訳はあくまでもM&M 通訳メイトの関係者に限るというこだわりがありました。これは正直なところ、次から次へと仕事を取って教室で教えるという本分がおろそかになるのが嫌だったのと、忙し過ぎる状態まで仕事を受けて、ろくに準備も出来ずに半端な仕事をして、大切なお客様の期待を裏切りたくなかったからです。
そして私の夢は常に、「生徒と一緒に仕事をすること。生徒とパートナーを組んで同時通訳すること。」でした。それは10年以上も前に叶える事が出来ました。その後、次から次へと、とても優秀な生徒が育ち、あちこちのお客様から当社が送り出した生徒達を褒めていただけるようにもなってきました。特に最近では経営者会議、特許関連や認証関連など、大企業の中でも一番重要なポジションを占める仕事も生徒とともに任せていただき、毎度本当に身が引き締まる思いです。
M&Mを立ち上げて30年過ぎました。世界でも日本でも、政治も経済も大きく変わりました。でも変えたくないもの、それは私にとっては大切な人達との繋がりです。今後も初心を忘れずに精進して参ります。